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2011年3月25日金曜日

小泉教授退任記念講演会&祝賀会



3月19日に総合診療部小泉教授の退任記念講演がありました。

お忙しい中、たくさんの方にご出席いただきました。



福井次矢先生、伴信太郎先生に講演をしていただきました。




改めて、総合診療の意義と役割を確かめる機会となりました。

16年余りの単身赴任お疲れ様でした。
















ヒロタキ

2011年3月18日金曜日

大震災に際して3

九電体育館での実務の実際ですが、、、、
 
体育館内での仮設診療所で保険診療を開始することに対しては、市や県の担当者からのOKをいただき、3/22より実際の診療を開始しました。
玄界診療所の看護士さんや市の健康福祉課の職員さんにも、診療介助や受け付けなどのお手伝いをお願いしました。薬に関しては体育館の近くの薬局に処方を一元化し、薬局の方にバイク便で体育館に届けていただくようにお願いしました。薬が配達されたのちに、館内放送で患者に届いた旨をしらせ、受け取りにきていただくシステムを採用しました。
夜間の診療に関しては、福岡市民病院から日替わりで応援にきてくださいました。また医療費に関しては、最初は通常どうり徴収する方向で調整されていましたが、最終的には全額市が負担してくださることになり、後に返却されております。
途中、インフルエンザが体育館内で大流行してしまい、大変憂慮される事態となりました。密集した生活のため、患者が発生すると隔離が困難なのです。明らかに時季外れの流行でありましたが、集団生活を余儀なくされた状況では蔓延を食い止めるのが至難の業でした。またインフルエンザの患者は個室管理が必要となるため近隣の病院も入院の受け入れ体制も十分とは言えませんでした。なんとか近隣の病院のいくつかを入院受け入れ病院として、患者隔離をお願いし、島民にはタミフルの予防投与も同時並行で行うことで徐々にインフルエンザの発生件数は減少。事なきを得ました。
精神的な問題も悩みの種でした。皆自宅は半壊しており、一様に表情も冴えず中にはうつ状態やフラッシュバックに苦しむ島民もおられました。重症患者に関しては出来るだけ私のほうでピックアップし、九州大学の心療内科の先生に診察をお願いしました。
あと玄界島を離れる際に、全島民のカルテを九電体育館に持参したことはその後の診療に大きく貢献しました。
(副島)
 

大震災に際して2

被災地医療に関してですが、初日と二日目ぐらいまでは救急外傷が主体となりますが、それ以降は慢性疾患や感染症の管理がmainに切り替わります。さらにその後は精神的なケアも必要となっていきます。
被災地医療をするにあたり、問題点はいくつもありました。
 
�患者さんは体一つでお金や保険証なども携帯されておられないことが多く、通常の保健医療が提供できない可能性が高いこと。
�そもそも仮設診療所などで保険診療をすること自体の許認可の問題
�保険診療ができない、もしくは患者にお金がないということになれば、例え薬の処方をしたとしても調剤薬局で薬の受け取りもできない可能性がある
�そもそも仮設診療所の周りに調剤薬局があればいいが、なければ被災民はどのようにして薬を手に入れればいいのか。
�患者さんは以前処方されていた薬の内容が不明である可能性があり、以前のdo処方も困難である。
�非常に密集した場所で過ごしているために、インフルエンザなどの感染症が発症すれば瞬く間に全体に伝播してしまうこと。その対応は?
�医師も人間。夜間などの対応まで24時間の患者対応を一人でこなすのは、さすがに自殺行為。夜間などの急患対応をどうするのか。
�検査や薬、点滴などどこまで物品がつかえるのか。その補給は?
�入院や紹介の適応と考えた時の受け入れ先の確保。
 
これらすべての問題がその被災した地域・地域で少しずつ異なり、マニュアル化が困難であるため、その場で対応する医師がそれぞれに考えて対応していくしかないのです。これらの問題をどうするかを思案し、私も3月21日はほとんど眠れませんでした。

2011年3月17日木曜日

大震災に際して1


今回の大震災にて被災した方々には心からのお見舞いを申し上げます。
私も6年前の福岡西方沖地震の際に被災地医療を行った経験がありますので今回はその経験について少し書かせていただこうと思います。
 
〜福岡西方沖地震〜

2005年3月当時、私は福岡の玄界島の診療所で一人院長として勤務しておりました。僻地医療を支えるために2003年の4月から医局からの命をうけての出向でありました。そして平和に二年の月日が流れようとしていた3月20日にあの大地震が島を襲ったのです。島は燦々たる状況で、多数の住宅が傾き、倒壊した家も少なくありませんでした。本土とは比べ物にならないほど住居の被害が大きく、間違いなく本土よりも強い揺れが島を襲ったのだろうと思われました(島に地震計がなく推測でしかないのですが、、、)。地震当日のうちに、全島民避難命令がかかり、全島民は体一つで本土に渡り、福岡市の九電体育館に避難することとなりました。当時の島の人口は700人程度であったと思います。それが、いつ終わるともしれない九電体育館での避難所生活の始まりでした。
私は、妻と1才になったばかりの娘を実家に返し、島民とともに体育館に移動しました。移動早々、市からの要請もあり、私は体育館内で仮設診療所を開設し、避難住民の診療を始めることにしました。3/21に開設準備を行い3/22から診療開始するという慌ただしいスタートとなりました。

2011年3月16日水曜日

震災の影響

三瀬診療所 西です。
 
これまでにない大きな地震、津波、原発事故による影響が、遠くはなれた佐賀でも出始めています。
 
工場や本社が東北・関東にある薬品や物品の入荷がおくれる可能性があり、甲状腺機能低下症の方には欠かせないチラーヂンSが出荷停止になったようです。
 
社会が混乱する中、私たちにできることは何か、冷静に考えていかなければと思っています。